シャネルの興隆から沈黙まで

1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表した。

このころ劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ、作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集うサロンを主催するミシア・セールと出会い、サロンの様々な人物と交際する(ストラヴィンスキー、身を挺してアヘン中毒から救ったジャン・コクトー、ロシア風の刺繍やビーズ飾りを使ったロシア・ルックを生み出すなど、影響を与えたロシアのドミトリー・パヴロヴィチ大公など)。ココはアーサー・カペルの死後悲嘆にくれたが、そんな彼女を元気付けようと連れまわしたのがミシアであった。

この頃、同い年である画家・マリー・ローランサンに肖像画を描いてもらう。しかし、ココはそれを気に入らなかったため、マリーに返す。この肖像画は現在、パリのオランジュリー美術館に展示されている。

1924年、以降6年間に及び交際することになるイギリスのウェストミンスター公爵と出会う。彼から多くもらった宝石類から着想を得た、模造宝石を使ったジュエリーを発表。この間に、後に「シャネル・スーツ」として発表されるスーツの原型がつくられ、ロシアの詩人だったイリア・ズダネヴィッチが、工場長を務める間、1931-1934年にツイード生地の開発に取り組んだ。

ウェストミンスター公爵と別れた後交際していた、ファッションイラストなどを描く売れっ子イラストレータであったポール・イリブとは、アーサー・カペル以来、結婚まで考えたようだが、その矢先、1935年にポール・イリブが急死してしまう。このように愛する人と、忌み嫌う愛人の座を捨てて幸せになろうとする矢先に、ことごとく相手が急死したり破産したりすることから、こういった運命を「獅子座の宿命を背負った女」と表現する人も多い。

1934年に、企業として順調に成長し続けるシャネル・ブランドは、アクセサリー部門のファクトリーを開設。翌年服地専門のファクトリーも開設した。

1939年に、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行。ココはあっさり一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。以後、同年9月に勃発し1945年8月に終結した第二次世界大戦中と戦後のスイスへの亡命期(いずれも後述)の15年間、ココはフランスのファッション界で沈黙を守る。
update:2009年09月14日